Mag-log in成果は何もなかった。
合同会社の名前自体、
SNSや5chでの噂程度しか出て来ず、
本当に存在するのかも不明だ。
噂の内容としては合同会社から商品を購入すれば夢のように甘い恋愛を堪能できると言われている。
だが、
具体的なエピソードは全く出て来ない。
「小中学生立ちんぼ倶楽部」に関しても利用していたという声は一切出て来ず、
5chなどでも当時の関係者は全員死んだのではないかと言われている。
新木葵も懲役刑を課せられた後の行方は分からず終いだ。出所しているかどうかも不明だ。
噂では多く出回っているにもかかわらず、確実な情報は何もない。
唯織も特に新しい発見はないようで、
日に日に苛立っているのが雰囲気で分かる。
早くこんな生活終わらせたい。
「戸塚でのライブ見たよ。たくさん良い曲持っているじゃん」
急にラインで沙耶から誘いがあった。
唯織との生活に息苦しさを抱いていたのですぐに駆け付けた。
誘われるままに喫茶店に入って沙耶とカウンター席で横並びに座って話していた。
彼女は肩あたりまでウェーブのかかったミルクティ色の髪を下ろして良い香りを振りまいていた。
彼女が喋るたびに多幸感で溢れる。
「そんなこと、
ないよ。
だって、
俺、
全然売れていないし」
左頬を彼女のマシュマロクリームみたいな視線が撫でる。
直視できず、
彼女の顔を横目で盗み見するしかできない。
一瞬だけ見てすぐに下を向いて爪先を見つめる。
「何でそんなに否定しちゃうの。
勿体ないよ」
理由など分かりきっている。
昔から俺自身に存在価値は無いに等しいと思わされてきた。
初めて自身の卑小さに気付かされた日の記憶が思い出される。
中学一年の時、
教師との面談の機会があった。
将来はL'Arc~en~CielのHydeみたいな歌手になりたいと思い切って伝えた。
この頃から俺は音楽に魅せられていた。
だが、
面談での話を盗み聞きされていた。
学校を出たところで同級生にHydeになるには顔から変えないと駄目だと笑われ、
顔の形が変わりそうになるほど何度も殴打された。
──死んでから人生やり直した方が早いだろ。
同級生の一人から殴られながら言われた。
よく覚えている言葉だ。
俺は地味な生徒だったので、
そんな男が大それた夢を語ったのが気に入らなかったのだろう。
だが、
この件をきっかけに歌手になる夢を抱いた俺自身を正当化させるため、
絶対に夢を叶えなければならないと自覚を抱き始めた。
しかし現実は厳しく、
芽の出ない歌手活動を通して自身の無力、
無価値さを痛感させられた。
歌で売れない限りは自信というものを手に入れられない気がする。
「どうしたの。
顔が暗いよ」
嫌な記憶に溺れていると沙耶が声をかけてくれた。
一瞬だけ彼女の顔を見た。
こんな俺が目を合わせて良い女性ではない。
すぐに目線を逸らす。
「大丈夫。
ちょっと、
昔のこと思い出していただけ」
「思い出したくないほど嫌な過去があるんだね。
ごめん、
変なこと聞いちゃって」
昔の話をしたら沙耶にも嫌われるだろう。
過去の俺自身の願いを正当化するためにも歌手として売れないといけない。
「私にも消し去りたい過去があるんだよね」
寂しそうな声だ。
驚いて聞き返そうとした途端に抱き着かれ、
思わず喉から笛音みたいな声を出した。
半袖のワンピースから露出した彼女の腕の皮膚が俺の腕の皮膚と密着する。
俺なんかと皮膚同士でくっ付き、
申し訳ない気がして落ち着かない。
「私も昔の本当に嫌な話は誰にも言えないもの。
亮さんもきっと同じだよね。
すごく気持ち分かる」
すぐ傍に沙耶の顔がある。
緊張から暴れている心臓の音が彼女にも伝わっているかもしれない。
「もう亮さんの辛かった話は聞かないようにする。
亮さんも私も昔を忘れて今を全力で楽しもうよ。
約束」
彼女は俺から体を離し、
目の前に小さくて白い儚げな小指を立てた。
俺の太くて褐色の汚い小指を儚げな小指にふわりと絡ませた。
彼女の方からクッと力が入れられた。
「こんな風にお互いに約束を守ろうって思えるのって、
亮さんから溢れ出る真面目さっていうか、
誠実さみたいな雰囲気があるからだと思うな」
沙耶はこの前会ったばかりの女性で、
まだ年齢から出身地や趣味まで何もかも知れていない。
正体不明な女性だ。
どうして俺なんかを認めてくれるのかも分からない。
もっと良い男なんてごまんといる。
彼女に見合う高スペックなイケメンが他にいるはずだ。
少なくとも俺には勿体なすぎる。
彼女の真意が知りたい。
藤沢亮という一人の男の存在を認めてくれるのか。
歯を食いしばり勇気を持ち、彼女の視線に目を合わせる。
円らな瞳が俺を上目遣いでしっかり見つめる。
モカブラウンのカラコンで囲まれた瞳の黒が俺を惹き付けて仕方がない。
「ありがとう、絶対に約束します」
沙耶が喜んでくれるなら何でもするつもりだ。
「本気で言っているの」
彼女は揶揄いながら俺の頬を人差し指で突く。
指先の指紋の凹凸が俺の頬の凹凸と一瞬でも合致するのではと思うと体が火照る。
当然本気だと伝える。
「今日からずっと一緒にいたいからさ、
本気の亮さんの気持ちを示してほしいな」
口角を上げて目を三日月型にしながら、
子リスの悪戯前みたいな表情で笑んでいる。
今日からずっと一緒という言葉により脳髄から蕩けそうになる。
「もちろん、
沙耶さんのためなら何でもやるつもりだよ」
「嬉しい。
すっごい嬉しい。
実はね、
今日お願いがあって呼んだんだ」
椅子に座りながら小さく上下に弾み、
彼女は俺の左耳に温かい吐息と一緒に言葉を送り込む。
昂奮し、
下半身が熱くなる。
「何でもやるつもりですよっ」
「嬉しい。
じゃあさ、
今同棲している人と別れてほしいなって思っている」
急に胃腸を鷲掴みにされたように、
ウッと声が出た。
唯織の切れ長の目が虚空に幾つも浮かび、
どう答えるのか見られているような気がする。
俯いて彼女の幻の目を見ないように努めた。
沙耶に会った時、
いつかは唯織と別れなければと薄々考えていた。
だが、
思っていたよりも早い。
「そうだよね。
うん。
いつか別れて来るよ」
「いつかじゃなくて今日別れを切り出してほしいな。
じゃないと安心できない」
正直、
もっと時間がほしい。
唯織は初めてできた彼女で簡単に別れて良いのか分からない。
だが、
糖分の多いレモンに似た黄金の月のように、
俺の暗い人生に光も甘さも刺激もくれる沙耶が、
いつまでも闇空で待ってくれるなんて思えない。
人生にとってどちらが大事な存在なのか。
唯織か。
沙耶か。
唯織と一緒にいて幸せなのか。
彼女を幸せにできるのか。
一年前に彼女と結婚も考えた時がある。
女性は妊娠の時期も考えないといけないから、
なるべく体力のある若いうちに結婚して家庭を築いた方が良いと知ったのがきっかけだった。
正直その頃は俺自身の夢も大事だが、
唯織との生活がより大事だと思っていた。
意を決して正社員として働いて安定を得て唯織と結婚しようと思っていた。
──別に私は結婚なんて考えていないんだけど。
勝手に決心した俺自身も悪いと分かっている。
だが、
あまりにも冷たい反応をされて彼女に対して不満を抱いたのも事実だ。
唯織は俺が嫌いなのか。
疑いすらも深まった。
そもそもなぜ俺と一緒に同棲しているのかも分からなくなっている。
今も赤子殺しの調査で空気は最悪だ。
対して、
沙耶はこんなにも優しくて瑞々しい時間をくれる。
今二人でコーヒーと一緒に注文した白桃のケーキは、
健康や体を気にする唯織とでは食べられない。
唯織はシュートボクシングの現役選手だった高校時代、
昼休みの弁当で蒸し野菜とサラダチキンを食べていたような人だ。
毎日強くなると意識して生きているような人だ。
今もあの頃とメンタルは変わらないように見える。
「亮さん、
ダメなの」
小首を傾げた沙耶は右手の指先を頬から離し、
そのまま下へ行き、
膝の上に置いていた俺の手の甲をヒタリと這う。
顔を上げた。もう唯織の幻の目は見えなかった。
「分かった。
今日別れを切り出してみせるよ」
「嬉しい。
どうなったか、
明日のお昼までに連絡してね」
その後二時間ほど沙耶と微笑み合いながら雑談して解散した。
空はすっかり暗くなっていた。夜空を見て初めて今日の唯織のシフトは遅番だという事実を思い出した。
明日のお昼までに沙耶に連絡しないといけないので、翌朝彼女が帰宅して寝るまでの間に話をするしかない。
どんな反応をするのか。正社員になると宣言した時と同じ冷淡な反応だろうか。
夜空を見て歩いていると、月が見えた。黄金の三日月だ。沙耶が見守ってくれているように錯覚する
──いつまでも一緒にいるよ。
言葉が投げかけられた気がする。
沙耶と一緒になって幸せ者になって良いのか。
恋ってこんなにも魅力的なのか。
「生きとし生けるもの合同会社」は恋物語を売っていると唯織は言っていた。
恋がこんなにも魅力的なら確かに事業として成立するなと一人で納得した。
♠ 亮光のない空間、俺は横になる。唯織が亡くなってから、恐らく一週間ほど経っただろう。俺は結局唯織を助けられなかった失意から死を決意し、再び顔を破壊する行為に出た。唯織を助けようと思って生きていたため、今更生き永らえる目的もなかった。今回は誰の勧めでもなく、俺自身の意思で顔面の破壊を実行した。前回の破壊では口は手を着けなかったが、今回は水酸化ナトリウム水溶液を口の中に含んで口腔も爛れさせ、舌も溶かした。もう歌手として活動しない俺には、口も必要ない。口を失って、本格的に今の人生をやめる決心が付いた。唯織の自害からずっと心配してくれた警官の一人が、自室で顔を血と膿で一杯にして倒れている俺を発見したようだ。病院へと搬送されたように感じる。沙耶も唯織も、歌手としての夢も、俺の未来自体も何もかも捨て去り、ただ死に損なった。残った左の眼球も錐でめった刺しにしたため、視覚ももうない。今は脳内の世界で残り僅かな正気で思考だけをし、命尽きるのを待つだけだ。俺にとっては沙耶や唯織、歌手としての艶撫亮のみが唯一の思考の中に残る光だ。ひたすら三つの光の鮮やかさに見惚れ続け、人生が途絶える瞬間を待つ。だがその中で、輝かしい空想だけではなく、当然のように不純な思考が差し込む。宮田老人は何故自らの娘も一緒に殺そうとしたのか。死に価値を見出していた宮田老人でも、娘の死は思い留まらないのか。娘に消火器に収めた臭いを発射させる役を与え、逃がす機会を奪っていたように見えた。宮田老人は自らで消火器を使って娘は逃がしても良かったのではないか。ずっと何かが引っかかっている。宮田老人は娘もまとめて殺そうとしていたのではないか。それは果たして、生死の神秘性を与えて作品化させるためだけか。もしかしたら、娘が死ぬべき存在だと見做していたのではないか。だが、その理由が思い当たらない。しばらく考えていると、一つ別の角度からの可能性に思い当たった。逆に娘が父親を利用していたとなるとどうだろうか。今まで親子の関係から、父親の宮田老人が諸悪の根源だと思い込んでいた。だが、実際に沙耶をリンチする際、集団を束ねているのは娘の方だった。もしかしたら、既に合同会社は父から娘に代表の座を受け継いでいたのではないか。
♢ 唯織ここはどこだろうか。白い壁、白い天井、白い床。天国にでも行けたのかと思ったが、違うとすぐに気づけた。白衣観音像の〈本当の〉胎内だ。「唯織、しっかりしてくれ」隣から声が聞こえる。夢人かと思ったが違った。亮だ。頭の中が霞がかっている。胎内の中は先ほど見たように、影の人間もおらず何の香りもせず、ただ無機質なだけだ。壁にかかる生クリームや果物も落ちて、床の端にゴミみたいに積もっている。生命が消えたような喪失感が、ふやけた脳みそをホロホロと崩しながら入り込んで来る。一年程前に山本さんの赤ん坊の死骸を見て、生まれたての子の気持ちを想像した時の喪失感とどこか似た苦味がする。とりあえず何か実体のあるものを感じたかった。適当に右手を動かしていると、何か温かいものを掴んだ。私の名を呼ぶ声と一緒に拍動が手のひらに伝わる。亮の体のどこか一部を掴んだみたいだ。人間の一部に触れていると徐々に感覚が研ぎ澄まされていく。清水から銃で撃たれた腹部に激痛が走る。「唯織、今警察の人が救急に連絡してくれているから、それまで頑張って耐えてくれな」どうやら警察もいるみたいだ。私が清水に銃で撃たれた後、宮田さんが清水を撃った。それから何があったのかは記憶にない。ただ一つ、今まで一生懸命働いていた仕事が幻と分かった今、私の生きる意味を失った。「夢人さんは、どこに」人生を生クリームと果物で甘く酸っぱく味付けしてくれた夢人葵は今どうしているのか。亮が助かって、警官が一緒にいる現実を考えると嫌な予感がする。「夢人は警察に捕まった。良かったよ。アイツは簡単に人を殺せるれっきとした犯罪者なんだから」亮の言葉と同時に周囲に散乱する果物の匂いが鼻を突いた。今、確かに彼は捕まったと聞いた。私が唯一愛した男は、結局宮田老人の駒も同然だった事実や、私自身の不甲斐なさ、理不尽と分かっているが亮への憤りが、明瞭になっていく意識の中で旋風のように吹き荒れる。「宮田さんは、どこにいるの」「さっきまでいたけど、今はここにいないみたい。多分何人かの警官と一緒に外にいるのかな」掴んでいる亮の一部が手首と分かったので、両手で捻じって床に伏せた。どこから力が沸いて出るのか腹部から血を流しながら立ち上がり出口に向
「なぜ、恋に死が絡むことを望むのですか」我慢できず、老人に問いかけた。「艶撫亮、あなたはまだ理解できないのでしょうか」老人は顔を上げ、眼を剥き、俺の潰れた顔を瞠目する。老人の白目は充血して赤い蜘蛛の巣が張っているみたいだ。「艶撫亮の意味は小野から聞いていただろう。それに全てが凝縮していると言っても過言ではない」艶撫亮の意味については何度も確認した。死を潜った新しい生である艶撫亮が最も美しいなど記載されていた。宮田老人は言葉を続ける。「なぜ恋物語に死が絡むべきなのか。大前提として、新たな生命を作り人間の種を維持するために備えられた人が人を恋する機能は、そもそも死とは裏表の関係だ。生死という人間にはコントロール不能で神のみが扱える聖の領域があるために、人生はより刺激的になるのだ」「人は必ず最後は死ぬ生き物です。そんな人を死に追い込むようなことをする必要があるのですか」「分からないのかい。人の手による命のコントロールだからこそ魅力を生むのではないか。なぜなら恋物語に神聖な要素を手で装飾して、人生を人の手によって煌びやかな作品にできるからだ」つまりこの老人は最初から他人の人生を自分の作品にしようと考えていたわけだ。「命をコントロールすることに罪悪感とかは沸かないんですか」「なぜそんなもの抱かないといけないのか。人生を作品にすることで、その者の価値も上がるではないか。今まで何も持たなかった人間に、作品としての価値が付与されるのだから」その哲学の下で生まれたのが艶撫亮ということか。宮田老人は、人の手によって生み出された死を孕んだ人生が最も美しいと思っている。そのために沙耶を名乗った小野美里は死に、俺は顔を破壊して死にかけた。艶撫亮はこの老人の作品に過ぎなかった。「いつからそんな考えを持つようになったのですか」「具体的な時期なんて分からないですよ。でも、私が十四歳の時に二歳の弟がいたのですがね。彼は二歳の時に病気で亡くなったんです。その時私の父が、『人が死ぬから、他の人は生きられるのだ』と言っていた。私はその時に初めて人の死を意識し出したかもしれない。死があるからこそ、私含めて生きている人間の命が尊くなるんだと」宮田老人はなぜか弟の死体にハエが集まる汚らわしい様子を見た記憶があ
♠ 亮「そこです、そこの『優美カフェ』と書いてあるところです」ショーケースの中に目的の文字を発見した。確かに唯織は「優美カフェ」と言っていた。山にめり込むように店を構え、上へ行くと大船観音寺がある。「本当なのですよね。あの動画で言っていたことは」パトカーを運転する警官はまだ半信半疑みたいだ。「さっき見たじゃないですか。あの倒れていた包帯男は夢人葵です。本名は新木葵。昔、『小中学生立ちんぼ倶楽部』の事件で逮捕された男です」「でも、個人を特定できる物が何もなかったからね」俺は美里の母の意思を考慮し、動画はまだ警察に見せていなかった。どうやら小野美里の母は、公園で送ったラインのメッセージを見てくれたみたいだ。彼女は品濃中央公園の位置を調べて、戸塚警察署に連絡入れてくれたようだ。その後、ゴッホによる異臭騒ぎで多数通報があり、小野母の通報の内容と繋がって本格的に警察が動き出した。ファンの男とスウェットの男も助かり、先程救急搬送された。計四人の警官と一緒にパトカーから降りてカフェに入った。「待て、落ち着きなさい」入った途端、一人の警官の鋭い声が響いた。見ると、唯織の先輩ナースの宮田という女性がこちらに銃口を向けている。周囲を見ると、三浦と名乗った宮田老人も銃を右手に持ち、胡坐をかいて座っている。清水は顔中血だらけにしながら、ワイシャツの胸の位置も真っ赤にしていた。その隣には丸まって苦しそうにする一人の女性がいる。彼女の下には血液が流れている。「唯織、大丈夫か」「近寄っちゃ駄目だ」警官の一人に止められて近寄れなかった。唯織は微かに動いてはいるものの、殆ど力は残っていなさそうに見える。警官の一人が救急に連絡を入れている間、銃を持つ宮田親子に呼び掛けている。「何をしているんだ。説明しなさい」「お父さん、どうする。こうなったら大団円も考慮しないとじゃないかな」「そうだね。この後の展開は中々厳しそうなものになりそうだな」老人は苦しそうな声を上げながら立ち上がった。よく見ると彼も全身痣や出血が酷い。老人は力なさそうに、幽玄な様子で警官たちに近寄る。「どうも、私が『生きとし生けるもの合同会社』の代表社員の宮田敏幸でございます。こちらは娘でございます。娘も合同
♢ 唯織血にまみれた宮田親子がカフェのフローリングの上でロープで縛りあげられている。彼らに一蹴り入れた清水は、こちらを向いて近寄って来る。「唯織ちゃん、どうする。もう君一人だ」ヤニで汚れた清水の上の前歯と、青紫色の下唇との間に涎の糸が引いた。「どうするも何も。私に選択肢はないように見えるけど」どうせ清水たちによってリンチされるだけだ。店に戻って来るや否や、彼はいきなり宮田さんの側頭部に拳を打ち付けた。背後にいた清水の友人を名乗る男たちも加勢して宮田親子をミンチにする勢いで殴り続けた。清水曰く、昔一緒に活動していた地下格闘家の男たちを連れて来たようだ。「もう十年以上もこの団体にいるんだ。そろそろ処分されるなって、雰囲気で分かっちゃうもんなんだよな」革靴の先で宮田老人のこめかみを踏みつけながら、野卑な笑い声を発する。「処分されるのが嫌なら、出て行けば良かったじゃない」「今更どこに行けって言うんだ。こんな人間が生きられる場所がこの地上にあるのか。よく考えてみようぜ」いきなり右ストレートが顔目掛けて飛んで来たので、上体を反らしながらバックステップで避け、無防備になった清水の顔にこちらからも右ストレートを叩き込んだ。「やりやがったな。待て、こいつは俺一人にやらせてくれ。お前らはその親子を引き続きやっちまってくれ」仲間の男たちを制した清水は、片方の鼻孔から血を流しながらニタニタ笑んでいる。血液が黄色い歯を赤く染めている。「シュートボクシングだろうが、要はお利口様の競技用の格闘技でしかないからな。今ここで地下の恐ろしさを教えてやろうじゃねえか」清水は顔を捻じ曲げる。下腹部を狙った金的をしかけて来た。下半身への攻撃は、手で防ぐと上半身に隙が生まれるので、バックステップで躱して相手の隙ができるのを待つ。清水が私の下腹部を狙って前蹴りを仕掛けるも脛ががら空きだ。膝で相手の脛の急所を突く。痛みによって歪む清水の顔が見えたので、顔目掛けて再び拳を入れる。「二度も同じ攻撃を食らってたまるかよ」腕のリーチは当然清水の方が長い。髪の毛を鷲掴みにされて壁に押し当てられ、何度も後頭部を叩きつけられた。「テメエみたいな世間知らずな小娘に、俺に最期を与えられるわけねえんだよ。この世界で十
♠ 亮「僕はずっと艶撫亮さんの裏には何かがあると思っていたんですよ。やっぱりでした。こんなことって本当にあるんですね」動画投稿後、すぐにファンと名乗る四十代くらいの男性が車でやって来た。宮田老人が三浦と自称していた時に唱えていた、ヒール好きが必ず出て来るという説は本当のようだ。事情を話してスウェットの男の案内ですぐに「優美カフェ」に向かうように指示した。唯織の命がすぐに危険に瀕するはずはないと思いつつも、自然と焦りが生まれ落ち着けない。「大丈夫ですかね、その何とか合同会社の仲間みたいな奴が急に襲って来たりしないですかね」ファンの男はジョークのつもりのようだが、現実は冗談を粉砕するほどの冷酷さを持つ。一方通行の道を走る途中、既視感のあるワゴン車が向かい側からやって来て進行を妨害した。「逆走車じゃなか。こんな時に運悪いな」ファンの男は何も気づかずにバックしようとするも、後ろにいた別の車が許さなかった。「艶撫亮さん。先ほど振りですね。生きていたなんて大誤算でしたよ」夢人葵が前方のワゴン車から降りて来た。後方の車からは先程俺を殺め損ねた金属バットの男が出て来た。「何だアイツ。ミイラじゃないか」金属バットで車のバックドアガラスが大破された。今度こそ必ず仕留める気だろう。合同会社の存在について話したうえで、殺し損ねたとなると彼の立場も相当危ういはずだ。「まずいな、こうなると予想できたはずなのに」スウェットの男は歯ぎしりをしながら前後の二人を交互に見る。「艶撫亮、お前はこのファンの方を連れて夢人の方へ行け。夢人は武力では何でもない。俺は後ろの金属バットの男の足止めをする」それで良いのか聞くと、スウェット男はどうせ罪滅ぼしの目的だからと悲しい笑みを作る。車を降り、俺はファンの男を連れて夢人のいるワゴン車の方へ突っ込む。夢人が両腕を広げて通せんぼしていたので、彼の急所に肩の骨を入れて体ごと突き飛ばした。視界の外で鈍い音が聞こえる。打ちどころが悪かったのかもしれない。「行ったぞ、お前たち」道端で悶絶する夢人の籠った声をきっかけに、幻影の人間が辺りに発生し始めた。仕組みは分かっている。女子中学生くらいにしか見えない大巫女の仕業だ。こんなのは無視すれば何でもない。だが、急に
「遠くの木に隠れて見ている。何かあったらすぐに駆け付けるから」とりあえず亮の要求を飲んで宮田さんの到着を待つ。誰もいない夜の公園で車の走行音のみ聞こえる。蛍光灯に集まる蛾が一匹増えていた。走行音の日常性の中に夜闇に蛾の舞う毒々しさが加わり、緊張感を際立たせている。今まで歩んで来た人生で未体験の現実離れした緊張に苦しめられる。亮も離れて行き一人にされたので余計に怖い。こんなにも亮を求めたのは初めてだ。「お待たせ、本間さん。どうしたのですか、急に相談したいだなんて」ベンチに座っていた私の背後から急に声をかけられ、心臓が激しくバウンドした。「らしくないですね。そん
探していたものが見つかり、胸が弾んで呼吸も乱れる。「この動画貰って良いですか」小野は換気扇の下で煙草を吸いながら力なく頷く。「警察には提出したんですか」「していませんよ。もう私は一刻も早く忘れたかったんです」動画自体残して置いたのは、消す勇気もなかったのかもしれない。「貰ってどうするんですか」「実は独自に美里さんを追い詰めた集団について追っておりまして、この動画がもしかしたら役に立つかもしれないのです」納得してくれたのか、小野は煙草を灰皿に押し付けて押し入れから何かを取り出した。黄色く変色した一冊のクリアファイルだ。ファイルのページを捲り、真ん中くらいで手を止
傍にいた探偵がおもむろに膝から倒れた。うつ伏せになった探偵の鼻にゴッホ男が香炉を添える。探偵の脇腹にパレットナイフが突き刺さっていた。「艶撫亮さん、何をしているのですか」夢人葵がこちらに近寄り、ステージにあるマイクを取る。「今から俗の世界からの侵入者に対して裁きを下します。この者が何者かは不明ですが、聖の世界に土足で踏み込む招かれざる客以外には考えられません。穢れはこの空間に最も似つかわしくございません」幻想に憑かれているような観客たちは急に騒ぎ出す。夢人の言葉に感化され、嬉々とした表情が黄金色に燦燦とする。「艶撫亮さん、この俗からの侵入者に対して追悼の意を込め
♢ 唯織喫茶店内の照明が暗くなり、ステージの上のみ照らされる。夢人葵のパフォーマンスが始まる。調理台に続いて夢人が現れる。喫茶店内にはラップロックのような音楽が流れる。彼は生クリームを舞うように作り、ロックの重厚なメロディーの中、ドラマティックにも、嫋かにも、大胆にも手足を動かす。生クリームを三つのスポンジケーキに塗り、それぞれに装飾を施す。真ん中に彼岸花を突き刺し、周囲にブドウやイチジク、マスカットをこれでもかとまぶし、フジツボの群れにも見えるほどだ。高揚し暴れ狂うよう舞い続ける夢人はベリー類をすり潰し、牛肉の薄切りを漬け込みバーナーで炙る。蜂の